貝がら千話

モノ・ホーミーの貝がら千話

第2夜「駅で話しかけてきた老人の話」

貝がら千話 第2夜「駅で話しかけてきた老人の話」 (二〇一九年二月七日)

貝がら千話 第2夜「駅で話しかけてきた老人の話」 (二〇一九年二月七日)

 あなた随分お疲れのようですね、と、突然話しかけてきた老人は何を断るでもなくホームのベンチに腰かけていたわたしの隣にどっかりと腰を降ろした。わたしは老人の問い掛けを無視して、しかし反射的に横に置いていた荷物をズッと自分の方へ引き寄せた。老人は無視しているわたしを無視して、再び、あなたやはり随分お疲れのようだ、と言った。何も答えないうちに、またもや無視して喋りだす。
 その食パン、味はそう悪くないが、ほら見てごらん、ここにショートニングと書いてあるだろう、これは体に良くないんだ。あなたのような若い人が食べるものじゃない。老人がわたしの持っている食パンを袋ごと自分の方に引っ張って、パッケージ裏の成分表を指さし見せつけるものだから、わたしは本当にげんなりしてしまった。朝から散々歩き回ってきて疲れていたし、朝から何も口にしていなかったために大変な空腹で、にも関わらず財布にはほとんど金が入っていなかったものだから、この食パンは随分悩んでようやく購入したばかりだった。
 こんな夜中の人気のない寒いホームでなかなか来ない電車を待っているうちに、眠ってしまわないとも限らない。そんなことになれば事だから、眠るよりここでこれを食べる方がずっとマシだ。そもそも誰もいないのだから見られて恥ずかしいようなこともない。そう思ってさっき買った只の食パンを、そのままもそもそとベンチに座って齧っていたのだ。
 パンは発酵食品だからね、体に良いんだ、小麦と米を比べて、パンを悪く言う奴もいるが、米と言っても玄米を食べているわけでもないだろうに。小麦にだって栄養はたっぷりあるさ、わたしはそう思うね。それに、あなたは普段から食パンを生でそのまま食べることはあるかね。さっき食べて、甘いと感じなかったかい。パンを発酵させるとき、イーストのエサに砂糖を入れるんだ、だからあなたのように疲れた人がパンを選ぶことは理に適っている。老人は喋りながら、わたしから奪った食パンをもうさっきからずっと勝手に食べ続けている。ボロボロの袖からのぞく汚れた指が、わたしの白い食パンを千切っては口に運び、を繰り返していた。わたしはもうパンを取り戻す気力も起きない。
 いや悪かったね、少し一方的に喋り過ぎてしまったようだ。ところであなた、疲れているときはパン、それはいい選択だ。だけど砂糖を摂るだけじゃ疲れはとれない。疲れたときは甘いものなんて言うけどね、朝から何も食べていないような顔をしているが、そういうときは少しの塩も一緒に舐めるといい。こういうときの為にいつも持ち歩くようにすると疲れ方も違ってくるから。
 老人はそう言ってポケットから黄色いフタのついたガラスの瓶を取り出し、空になった食パンの袋の上に置いてどこかへ行ってしまった。瓶の中には白い塩が半分くらい、入っていた。

絵と文 モノ・ホーミー/二〇一九年二月七日)

第1夜「あなたの種、売ります」

貝がら千話第1夜「あなたの種、売ります」

貝がら千話第1夜「あなたの種、売ります」


 なるほど、あなたはご自分が何者なのかわからなくて困っておられる、そういうわけですね。ええ、わかります。もちろん記憶を失って名前がわからなくなってしまったわけでも、生まれた場所やご家族のことを忘れてしまったわけでもない。
 安定した収入を得られるお勤め先もあるし、住むところもある。たくさんのご友人に囲まれて、長くお付き合いされている恋人もいらっしゃる。ご安心ください。そういった悩みを抱えていらっしゃる方はあなただけではなく、たくさんおられるのです。
 わたくし共の店を訪ねてこられるお客様は、みなさんあなたと同じように大変ご立派な方ばかりで、やはりあなたと同じように胸の内でひとり悩んでおられるのです。
 何も悲観なさることはありません。むしろ、よくぞお気付きになられました。自分が何者であるか、わからないことにさえ気付かないでいる方が多いのが実情です。
 無理もありません。驚かずに聞いてください。実際わたしたちは、何者かである必要なんてないのです。あなたは悩んでおられる、その苦しみは十分承知しております。ですが、そう思うに至った経緯を思い出してみてください。あなただけではありません。誰もがそうなのです。
 …ええ。仰ることはよくわかります。それでも何者かでなければならないと。そういう方のためにわたくし共の店は存在しているというわけなのです。

(絵と文 モノ・ホーミー/二〇一九年二月六日)