貝がら千話

モノ・ホーミーの貝がら千話

第9夜「一三〇〇人の同僚と女王陛下の寝所」

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貝がら千話 第9夜「一三〇〇人の同僚と女王陛下の寝所」(二〇一九年二月十四日)


 わたくしのつとめは女王陛下のお支度をお手伝いさせて頂くことでございます。毎朝まだ暗いうちに一三〇〇人の同僚と真っ暗なバスに揺られて、女王陛下の寝所へ向かいます。バスの窓には黒い布がぴっちり貼られて、どこをどう走っているのか見ることはできません。外から明かりが漏れてくることもありません。わたくしたちは、一言も互いに口をきいたことはありませんが、この一三〇〇人は皆、女王陛下のお化粧を担当する者たちです。
 皆、寝所に着くまでは黙ってじっと座っています。わたくしは大抵この間に仮眠をとっておりました。他の者もおそらくそうであったのではないでしょうか。途中で目覚めると、女官たちのスースーという寝息が、暗いバスの中に響いておりました。女官たちはもちろん全員が顔に黒いベールを垂らしていますから、はっきりと確かめたわけではありませんけれど。
 寝所に着くと、一人づつ呼ばれて自分の担当箇所で降ろされます。わたくしの呼ばれるのは七三六番です。バスの降車口で、今日の分の化粧品を受け取ります。化粧品は一日分づつブリキ缶に入っています。こういったものを用意する者たちも、どこかで同じように働いているのではないかと思います。
 仕事はひとりで行います。仕事中に他の女官に出会ったことはないので、皆一人づつ自分の領域を担当しているようです。女王陛下はお眠りになっている間に幾分肌が乾燥しておられるので、お肌の汚れを丁寧にふきとり、保湿をすることからはじめます。最初に精製水の缶をあけて女王陛下の表面をふきんで清め、次に化粧水の缶を、それからクリームの缶をあけます。ひと缶あけるごとに担当区域を端から端まで移動するのでなかなかの重労働です。
 それが終わると下地クリーム、ファンデーションと続き、最後に全体に透明感のあるお粉をはたいておわりです。
 一番大変なのはファンデーションを均一に塗布する作業です。ムラなく塗らないと粉が固まってくっついてしまいます。女王陛下の表面には深い窪みや分厚いヒダがいくつもあって、それらを持ち上げたり覗き込んだりしながら慎重に仕上げてゆきます。表面が次第に整ってゆくうちに、女王陛下の体温が少しだけ上がって、肌がつややかな血色を帯びてくるように感じます。このときにいちばん仕事のやりがいを感じたものでした。
 この行程を終えるとブリキ缶の化粧品はいつもちょうど使い切って、空になった缶を抱えて帰りのバスを待ちます。一三〇〇人の女官を乗せた真っ暗なバスは、女官たちを、来た時と同じようにそれぞれの寝所へと運ぶのでした。毎日がこの繰り返しです。翌朝行くと前の日に女王陛下の表面へ施した化粧はすっかりなくなっているので、きっと化粧を落とす係もいるのでしょう。
 その日もいつものように仕事へ向かいました。いつもの段取りで進め、ファンデーションを塗っている途中で窪みの中に大きな岩のようなものが落ち込んでいるのを発見しました。不思議に思いながらも、これをどけないことには作業をすすめることができません。
 わたくしは岩を押したり引いたり、力まかせに動かそうとしましたがびくともせず、ふいに持ち上げようとしてみたこところ岩は思いの外すっと動き、わたくしは抱えた岩を勢い余って取り落とし、尻もちをついてしまいました。
 岩の下には穴があり、その穴から、水がどんどん流れ出してきました。ブリキ缶が流れていくのを食い止めようとしたわたくしも流れに足をとられ、そのまま濁流に呑まれて、家の近くのバス停の前で倒れているところを発見されたのでした。
 翌朝も同じようにバス停へ向かいましたが、バスは来ませんでした。がっかりしているわたくしを心配してか、家族は女王陛下のことは早く忘れるようにと言いました。わたくしも、もう家族にこの話をすることはありません。女王陛下は、一三〇〇人の同僚達は、今頃どうしているのでしょうか。今もわたくしを除いて続いているのでしょうか。わたくしの手元には流されるとき握ったまま持ってきてしまった、粉をはくための筆だけが残されています。

(絵と文 モノ・ホーミー/二〇一九年二月十四日)